社畜日記

「多様性、集う、つながる」など、コミュニケーションを謳う言葉に殺す感がある

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こんにちは、おつげ女です。

私の周りでは、繋がりづくり、コミュニティづくり、関係づくりが盛んです。

でも、盛んな人たち、団体、環境をみるにつけ、それとは間逆の世界観で生きる人がより輪郭を得てハッキリ見てとれるようになりました。

そこに漂う雰囲気は、行き場のない焦燥感、不安、嫉妬、妬みになど、言葉にならない世界を生み出していることに気づきました。

繋がりづくりを歌い、言葉による見える化が、繋がらない世界を消してしまいそうな世界に変えてしまいそうに思えてしかたなりません。

繋がりが希薄になったというのは嘘。じつは繋がりすぎて、繋がりを意識できなくなった。

そう、繋がりなんて、昔からさほど変わり映えしていない。

今なんてインターネットの普及でコミュニケーションが常にできる状態。

なにも、人と話していなくても、コミュニケーションしている感じさえある。

昨今、繋がりが希薄になったと言われるけど、わたしにはそうは見えない。

繋がりすぎで境がわからなくなっているだけじゃないかと感じているからだ。

にもかかわらず、震災以後の、繋がり、繋がりという言葉の連呼が気持ち悪くてしかたない。

コミュニケーションをとれるだけ、とりつづけ、繋がりを表だってしてない者にとっては、苦痛な表現でしかないのだ。

双方向だけがコミュニケーションではない

人を集めるだけがコミュニケーションでもない。

集まる、繋がるじゃなく、会いに行く繋がるを。

「集まる」をつくる人。「会いに」行く人。「集まる」と「会いに」の潤滑油の役割をになう人、または環境があればいいのにと思う。

海外では、そのような人の役割に、コミュニティアニメーターというのがあるらしい。

日本じゃまだまだ知られてない。

殺す感じがなくなるように、コミュニティアニメーターが増えるといいんだけどなぁ。

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